「わかってもらえる」ということ。遠く、他者の立ち位置から、理解されることがある

こんにちは、繊細の森の武田です。
 
みなさま、
「わかってほしい」
「理解されたい」
と思うことは、ないでしょうか。
 
今日は、理解について
とあるエピソードを書いてみたいと思います。
  
 
* * *
 
 
昨年、仕事で、
とある精神科医の先生と
お話する機会がありました。
 
臨床のご経験が大変豊富な、大先輩です。
 
HSPについてご説明したのち
私がカウンセラーになった経緯を
話すことになり、
 
自分の生い立ちを
ざっくり伝えたんですね。
  
すると、
その精神科医の先生が
カラカラと笑いながら
「武田先生も苦労なさったんやなぁ!」
と、おっしゃったんです。
  
 
私からは
家庭環境や、しんどかったことを
軽くお伝えしただけであり
 
精神科医の先生も、
一言そうおっしゃっただけなんだけど
 
これまでに経験のないくらい
深く、理解された…
「わかってもらえた」感覚がありました。
 
 
 
カウンセラーは
相手を理解するのが仕事です。 
 
私は普段から
「どれだけ相談者さんを理解できるか」
に情熱を燃やしているところがあるので
  
先生の言葉を聞いて、
 
「たった一言で、そしてこの距離感で
理解が成り立つのか!」
 
と衝撃を受けました。
  
  
 
カウンセリングをするときも
本やコラムを書くときも
私の言葉は、寄り添う要素が強いと思います。
 
相談者さんがどんな状況にあっても
否定せずに聴いていく。
   
テーブルひとつはさんで
あるいは隣りに座って
うんうん、と肯定的に聞いていくような
この姿勢は、心の距離が近いです。
 
 
 
ところが、
(私が感じた)先生の立ち位置は
遠くて、他者。
  
マウンドを挟んで、
プロ野球選手のピッチャーに
球を投げ込まれた!
 
ぐらいの距離感でした。
 
 

  
  
日本語は、主語を省略しても
伝わりますが

主語をなくして
たとえば「大変だったんですね」などと
話していると
 
自分と相手の感情や経験が
混ざります。
 
 
「私は」「あたたは」と
きっちり主語を立てることで
 
誰の経験なのかが曖昧にならず、
 
それは私の/あなたの経験である
ということが明確になります。
 
 
 
精神科医の先生の言葉は 
 
「僕も苦労したんよ」
(=自分の話)でも
 
「そうか、大変やったんやねぇ」
(=ねぎらい)でもなく
  

「武田先生も」と
主語を明確にした上で

「苦労なさった」という
中立の言葉が続いています。
 
 
端的にまとめると、精神科医の先生は
「武田先生は苦労した」と
おっしゃっているのであり、
 
主成分は
ねぎらいや、寄り添いではなく
 
自他の区別をはっきりした上での
事実認定なんですね。
  
 
先生の立ち位置は
明らかに他者なのですが
 
私にとっては、不思議と
「深く理解された」
感じがしました。
  
  
自分と相手の存在が
はっきり分かれたまま
 
遠い遠い、他者という立ち位置から
ズバンと理解がくる。
 
こんな理解のしかた/されかたが
あるのか、と
度肝を抜かれました。
  
 

 
 
相談者さんから
「わかってほしい」
という言葉を聞くことがあります。
 
家族や友人に、わかってほしい。
大切な相手であるほど、切実です。
 
 
私も、かつて
「わかってほしい」
という気持ちが、すごく強かったです。
 
 
私の場合、
「わかってほしい」は
「寄り添ってほしい」
という意味合いでした。
 
 
当時はまだ、
自分で自分に寄り添うことが
できなかったから、
 
誰かに優しくしてほしい
そうしないと心が保たない
ということだったのだと思います。
   
「寄り添ってもらう」以外に
理解の形があることを
知らなかったのです。
   
  
  
自分の感情や悩みを
一定程度、
自分で受け止められるようになり
 
カウンセラーとしての
経験を積んで、思うのは
 
「本当の意味で
その人を立たせるのは
 
寄り添われることではなく
 
他者の立ち位置から
理解されたり、
 
自分と他者とで、対等に
意見を交わすことなのだ」
 
ということです。
 
 
 
寄り添ってもらい、
気持ちや考えを肯定してもらうのは
――相手に、自分の世界へ来てもらうのは――
安心ではあるけれど
 
それだけでは
自分の考えが反響するだけで
  
ひとりきりの世界から
出られないのです。
   
  
  
自分と相手のちがいを、そのままに
 
他者として
「あなたは、そうなんだね」
と理解する/されること。 
  
  
この理解のしかたは
 
「私とあなたは、
ちがう考え・感覚・経験をしてきた」
 
という前提がはっきりしていて
相手を寄りかからせません。
  
 
厳しいながらも
相手を、どこまでも
自分の力で立たせるのです。
   
 
 
 
 
今回、精神科医の先生と
お話させていただき
 
峻厳な大自然と
対峙しているような感覚になりました。
  
  
他者に理解されるとは
本来こういうことなのか、と
 
理解の最終形を見た気がしています。
  
  
 
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◆泉谷閑示先生の本、日本語の主語と精神的自立について書かれていて、おすすめです。
※このコラムに出てきた精神科医の先生は、別の先生です〜!