「こんなこと書いて、わかってくれる人はいるのだろうか」と思ったら、人類の読解力に委ねる。
Twitterでもブログでもnoteでも、
なにかを書こうとして、あるいは、書いて公開ボタンを押す前に
「この話、わかってくれる人はいるんだろうか」
と思うことはありませんか。
言語化したいものは、もよもよと頭の中にあるけれど
「ただの日記だし、これを公開したってしょうがないよな……?」
と思ったり、
いったん書いてから
「抽象的なこと書いたなぁ。私は満足だけど、読む人にはわかりにくいかなぁ」
と、説明を加えるうちに、テイストが変わってしまったり。
私は未だにありますが、みなさまいかがでしょうか。
そんなとき、人類の読解力に委ねてみてはどうだろう? というお話です。
*
ブログを始めて約7年経ち、出版も経験してみて
「言いたいことは、案外、伝わるものだな」という感触があります。
本を例に書いてみますね。
私の1冊目の本「繊細さんの本」は、ノウハウの本です。
五感へのケア方法や、仕事や人間関係で繊細さんに効果のあったノウハウを、とにかく書いていきました。
文章の割合としては、「こういうときは、こうしてみてね」というシチュエーション別のノウハウがほとんどです。
私が本当に伝えたかったのは
「繊細さって、いいものだよ」
「本音を大切にすると、人生がいい方向に行く」
ということだったので
「なんだかノウハウばっかり書いちゃったな。これで良かったんだろうか……?」
と思っていたのですが、
レビューをみてみると、
「自分でいいんだと思えた」
「繊細さって幸せ気質なのかも」
「本音をもっと大事にしようと思った」
など、
たくさんの方が、伝えたいことを受け取ってくださっていたんです。
ノウハウは、大切だけれども、枝葉です。
「繊細さはいいものだ」という思想が幹としてあり、それが本の言葉遣いやノウハウの成り立ちに反映されています。
ノウハウを通して、その奥にある思想や人柄も、受け取ってもらえた。
枝葉をみて、幹を受け取る。
レビューを通してこれを実感したことは、驚きでもあり、「そうだよな」と腑に落ちる感覚もありました。
人間の受け取り力の高さというか、人間たるものの迫力というか、とにかく「人間はすごいんだぞ。見くびるなよ」と。
そんなことを考えていたら、村上春樹氏が、読者さんの理解について書いていました。
エッセイ「職業としての小説家」に、
期間限定でホームページを開き、もらったメール数千通に返事を書いたときのことが書かれています。
一人一人の個別の読者を見ていけば、そこにはときとして誤解もありますし、考えすぎのところもありますし、あるいは「それはちょっと思い違いじゃないか」というところもなくはありません(すみません)。
僕の「熱烈な愛読者」を自称する人々だって、個々の作品を取り上げれば、賞賛もあれば批判もあります。共感もあれば反撥もあります。寄せられた意見をひとつひとつ見ていくと、なにしろてんでばらばらみたいに見えます。
でも何歩か後ろに下がって、少し離れたところから全体像を見渡すと、「この人たちは総体として、とても正しく深く僕を、あるいは僕の書く小説を理解してくれているんだな」という実感がありました。
細かい個別の出し入れはありますが、そういうものをすべて差し引きして均してみると、最終的には落ち着くべきところにきちんと落ち着いているということです。
「うーん、なるほど、そういうことなのか」と僕はそのとき思いました。尾根にかかっていた霧がさらりと晴れるみたいに。
そういう認識を得ることができたのは、僕としてはちょっと得がたい体験だったと思います。
―村上春樹「職業としての小説家」P259-260より引用。
※改行・太字は武田
あの村上春樹氏が――受け取り方が人によって異なる小説を書く彼が――こう言っていることに、私はものすごくインスパイアされます。
勇気をもらえる、を通り越して、インスパイア!
いや本当にそうですよね!!!
ひるんでる場合じゃないですよね、ますますがんばります!
と、大興奮。
今日のこの記事も
「村上春樹氏のこの話、私はめっちゃおもしろいと思うけど、他の人にとってはどうなんだろう?」
と思いながら、実は書いています。笑
(でも、世界は広いので、全世界を見渡せば、同じ感覚の人もきっとたくさんいるだろうと。そのあたりは、昔から信頼しています)
読者さんひとりひとりがどう受け取るかは、やはり、読者さん側の状況によります。レビューをみても、ご自身の心境や過去の経験を反映しながら、受け取っておられます。
受け取り方を、発信側でコントロールすることはできない。
発信側にできるのは、自分の発信を、納得のいく形にするところまで。飾ったり曲げたりせず、ベストだと思えるまで試行錯誤を尽くす。
そこまでなのだと思います。
精一杯やったら、あとはリリース。
どのくらい受け取ってもらえるかは個人によるけれど、それでも、全体としては届く。幹は、伝わる。
「わかってもらえるだろうか」と怯んだときこそ、
人類の読解力に委ねて表現していけばいいのではないか、
と思っています。
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