意志を持って潜り、日常に帰ってくる。〜自己治癒の物語、ゼロベースの物語

元旦の夕方ぐらいからゆるみはじめ、
かつてないほど、ぼ〜っとしながら、
お正月を過ごしています。
 
人生で、こんなに長期間ぼんやりしていたことは、ないんじゃないだろうか…?
というくらいに、ゆるんでいます。
 
 
 
やらなければいけないことはあるんだけど、
 
なにも考えが浮かんでこない、ぼんやりとした時間が
貴重で大切なもののように思い、
 
気合いをいれたりせず、
ただぼんやりしています。
 
 
 
自分の心に潜って、そのときどきの気持ちを表す言葉を
ひとつひとつ探すうちに
 
「心に潜るって、体力がいることなんだ」
と気づきました。
(原稿を書いた後は、やたらとおなかがすきます…!)
 
 
 
もうひとつ気づいたのは、
「深く潜るには、帰ってくる場所が必要なのだ」
ということ。
 
自分のなかに深く潜ったのち、
家族や、読者さんや、
目の前の人たちのもとに、帰ってこないといけないのです。
 
 

 
 
つらいことがあったとき、
物語のなかに居場所を作って心を守る
という没頭の仕方があります。
  
現実がつらいから、空想を必要とする。
生き延びるために必要だから、空想する力がものすごく伸びる。
 
必要にかられた、シェルター(避難所)としての物語です。
 
 
物語にすることで
自分に起こった出来事を理解しようとする、傷ついた心を癒やしていく……、
という自己治癒としての物語もあります。
 
 
 
シェルターとしての物語に没入している時、ハイで、楽しいものです。
 
気分が高揚し、アイデアがどんどん出てきて(あるいはストーリーが次々に展開し)、書いても書いても尽きることがない。
生き延びるために必要だから、圧倒的な力を持っています。
 
私もかつてそうだったし、
絵や小説といった形でシェルターを持っていた相談者さんからも、そういったお話を聞きます。
 
 
ですが、
やりたいことをやり、自分なりの人間関係を築き……と、
自分の人生を歩むうちに、物語に入れなくなります。
 
「昔はあんなに絵を描いていたのに、描けなくなった」
「わーっ!!という高揚感をもう一度味わいたい。でも、もうあの状態になれない」
となる。
 
 
彼女らに共通しているのは
「人生が穏やかになった」ということです。
 
現実から避難する必要がなくなり、痛みをある程度治癒できると
物語は、出てこなくなる。
 
シェルターとしての物語も、自己治癒としての物語も
役目を終えるのです。
 
 
 

 
 
 
自己治癒としての物語と、
穏やかな日常でゼロベースから始まる創作とでは
材料が異なります。
 
 
自己治癒の物語は
痛みの経験がベースにありますが
 
穏やかな日常をおくりながら編まれる物語は 
喜びや希望や、自分が「感じたい」と思って感じたことが、材料になります。
 
自分の意志が、反映されていく。
 
 
日常の幸せを大切にしていると、また創作できるときがやってきますが、
 
必要にかられて半自動的に物語へシフトしていたときとはちがい、
 
意志をもって関心のある分野に潜り
そして帰ってくる必要があります。
 
 
 
分野がなんであれ、 
 
深く考え、直感を使い
頭と心を織り交ぜながら潜った先には
 
個人を越えたなにかがあるように思います。
 
 
建築や詩集、写真、アート、気迫のこもった書物に
思想と、大いなるものにつながって汲み出したものを
感じることがあります。
 
個人で考えているだけでは、たどりつけない。
多くのものを見、
インスピレーションや、「体」という人類の叡智に助力を得て
はじめて汲み出せる領域です。
 
 
 
私の場合は、深く潜れたときには
肚のあたりから底がぬけて
どこかにつながる感じがあります。
 
なにか巨大なものが
ぬっとそばを横切るような場所。
 
そこに降りて
心と体でなにかを感知しようとするのは
自分という自我を、短時間でも
手放す行為のように思います。
 
 
 
平穏な暮らしがあり
また会いたいと思う相手がいて
 
背中の命綱をたぐるように
日常に帰ってこれるから
 
深みへ潜り、探索できるのです。
 
 
◆関連記事

表現。心とつながって書くと、どこに届くのか?

一般の感覚から離れ、「変」を経由して思想になる