平時の創作。穏やかな日常の、心の感度。

※ひとつ前の記事が長かったので、2つに分割しました。
 
 
以前、コラムで、
シェルターとしての物語の話をしました。
→【意志を持って潜り、日常に帰ってくる。〜自己治癒の物語、ゼロベースの物語】
  
絵でも小説でも「昔はあんなに描けたのに、描けなくなった」というとき、
人生が穏やかになったのかもしれない、という話。
 
人生が穏やかになると、
シェルターとしての物語、自己治癒のための物語は役目を終えるので
アイデアが出なくなったり、創作が止まったりします。
 
 
 
でも、創作している時間はとても幸せな時間だから、創作したいですよね。
 
穏やかな日常にいながら創作するには、どうすればいいのか?
 
その方法のひとつが
「ゆるんで、小さな心の動きに耳を澄ませること」なのだと思います。
 
 
 
シェルターとしての物語、自己治癒のための物語は
噴出する形で作られます。
 
深く考えて生み出すというよりも、
抑え込まれた感情が、アイデアやストーリーという形で噴出してくる。
 
噴出するものを、ただ記述する・書き写す、という表現のしかたです。
 
 
 
一方で、平時の物語は
感情の圧がないので、噴出してきません。
 
「噴出したものを書き写す」というワザは使えないので
自力で深みまで潜っていく必要があります。
 
 
 
私は、人生が平和になったあと
心に潜りたいのに潜れない感覚がありました。
 
重りの足りないダイバーのように、水面近くでバタバタして
一定以上の深さに潜れない。
 
 
 
試行錯誤してわかってきた「心に潜る方法」のひとつは、書くこと。
 
アウトプットすることで、階段を降りるように
一段一段、心の深みへ降りていく。
 
 
 
もうひとつの方法は、
ゆるんで回路を開くこと。
 
意識的に「潜る」というより、
心身をゆるめることで、心の深みに通じる回路を開き
 
回路を上がってくる、シャンパンの泡のように細かなものを――気持ちや、人類の叡智や、ふと浮かぶものを――書いていく。
 
 
それは、抱えきれない悲しみや怒りなど、マグマのように吹き出す「強い衝動」を書き留めるのとは違う、繊細な行為です。
 
 
 
感情の目盛りを振り切ることのない
穏やかな日常をおくっているから、
感性のダイヤルを、小さな心の動きに合わせられる。 
 
感度を上げて
日々の心の動きを、丁寧にとらえられるのです。
 
 
 
そして、
過去の経験の大小と、平時の心の豊かさは
必ずしもリンクしないのだと思います。
 
なんでもない日々に優しい気持ちでいられるのは
「かつて辛いことがあったから」ではなく
 
いま、自分の心に耳を澄ませて
ひとつひとつを大切に味わっているからなのだと
そうでありたいと思っています。