一般の感覚から離れ、「変」を経由して思想になる

本当に思ったことや感性で体感したことを書くのは、怖いものだと思う。
 
本当に思ったこと、感じたことというのは、パーソナルなものだ。ごく個人的な体験。
 
ごく個人的な体験だからこそ、他者には理解してもらえない可能性がある。
 
「自分が本当に思ったこと」と、「大勢から容易に理解されること」は、もともと相反するものだ。
 
 
 
だが、その一方で、
 
「自分が本当に思ったこと」を突き詰めていくと、「大勢の人が心のどこかで思っていたこと」に到達する。
 
個人的な体験から出発して、磨かれ、大勢に届いていく。それが「思想」と呼ばれるものになる。
 
 
 
先日、感じたことを書こうとして、私は怯んだ。それは、個人的な体験から出発して思想に到達するまでに、一度、変になるからだ。
 
個人的な体験を突き詰める過程で、どうしても、世間一般の感覚から離れる。
 
 

  
 
安藤忠雄氏の「建築家 安藤忠雄」を読んでいる。デビュー作・住吉の長屋を作ったときのことが書かれている。
 

 
 
住吉の長屋は個人のための住宅だが、一般の住宅像からはあまりにかけ離れていたため、批判を浴びた。
 
細長い狭小の土地に、窓のないコンクリート打ちっぱなし、各部屋への移動に難のある家を建てたのだ。
 

「住吉の長屋――批難を浴びたデビュー作」
 
建築というには余りにささやかなスケールではあったが、住まいとして、 いくつかの問題をはらんでいたために、この家は世間の注目を集めることとなった。
 
 
その第一の問題は、四周が壁で囲われて、入口以外には一切の開口部がないこと。
 
第二の問題は、内外とも、壁と天井がすべてコンクリート打ち放しで出来ていること。
 
そして第三の問題は、これが一番論議を呼んだのだが、ただでさえ小さい箱を3等分して、その真ん中を屋根のない中庭としてしまっていること。
 
要するに、1階の居間 と水廻りを集めた食堂、2階の夫婦の寝室と子供部屋、これらの部屋から部屋へ移る 生活動線がすべて中庭によって断ち切られてしまう構成である。
 
-「建築家 安藤忠雄」P67より引用

 

その後、建築専門誌に発表すると、伊藤氏のように評価してくれる人もいる一方で、厳しい批判の声も数多く挙がった。
 
「窓の無い外観は街に対して閉鎖的過ぎる……内外コンクリートの打ち放しは、住空 間としてどうなのか……断熱もせず、冬の寒さはどうするのか……雨の日には寝室か らトイレに行くのに、手摺も無い階段を、傘をさしていかねばならないのか……」
 
(略)
 
現実に住まい手に厳しい生活を強いている以上、建築家のエゴだと言われるのは仕方がない部分もあるだろう。
 
だが、機能も考えず芸術作品のように好き勝手につくったのだろうという批評は、的外れだ。
 
この家は、決してそこで営まれる生活を無視して出来たものではない。逆に、生活とは何か、住まいとは何かということを自分なり に徹底的に考え、突き詰めた結果だったのである。
 
-「建築家 安藤忠雄」P67より引用

 
 
住吉の長屋を作った彼は、のちに、表参道ヒルズを作る。多くの人が利用する商業施設。
 
私は表参道ヒルズが好きだ。大きな吹き抜け、百貨店のようには階が分断されず、3階から地下までスロープでぐるぐる歩いていける。ゆるやかにカテゴリー分けされながらも、地下から3階までの全体で、「表参道ヒルズ」の空気感を作っている。
 
このつくりは安藤忠雄氏だったのか、と驚いた。
 
 

 
 
突き詰めることで一般の感覚から離れる。大勢の人が容易に考えうることと、突き詰められた考えとでは、深さが異なるのだ。
 
だが、批判されながらも少数の理解者とともに歩み、やがて突き抜け、
 
多くの人に通じ、かつ、その人にしか作れないものに至る。
 
思想とはそういうものだと思う。
 
 
 
 
本当に思ったことを発信するのは、怖い。
 
だけれども、ごく個人的な体験のなかに、思想の芽がある。
 
そして思想とは、突き詰めた先に”ぽん”と現れるものではない。突き詰めていくプロセスそのものが思想なのだと思う。
 
考え考え、紆余曲折しながら歩んでいくプロセスそのものが、太く強く、経験に裏打ちされた思想になっていく。