美、芸術。時空を超えて、その人が隣にいる感覚。
休日の朝。てくてく歩いてお気に入りのカフェへ。
大きな窓から朝日を浴びる。陽が手のひらにあたってぽかぽかする。
休日らしいゆったりした洋楽と、壁に飾られたリトグラフ(複製版画)、木のテーブル。
落ち着いた空間に身をひたすうちに、細かく舞っていた雑念が静まり、自分が心の深部へつながっていく感覚があった。
心とつながるスピードが、普段よりも速く、力強い。
不思議だ。このリトグラフの力だろうか。
アートには心の深い部分を呼び起こす作用がある。
作家のサインをたどる。あまり詳しい情報が出てこないけれど、ニューヨークの写真家らしかった。
HPを開き、泣きそうになった。
まなざしを感じる。写真家のまなざし。
ADRIAN GAUT
http://www.agaut.com/
彼が撮った人物写真をみて、ぞわぞわと鳥肌が立った。
なんでだろう? と改めて写真をみたら
人と空間が、同等なのだ。
ADRIAN GAUT
http://www.agaut.com/
よく目にする人物写真は「人」が主役だ。人が主で、風景は背景。
けれど彼の写真では、対象の人柄が空間に漏れ出ている。
「空間」でも「人」でもなく、空間と人の調和した様子が――「世界」そのものが――映っている。
「世界をみる」とは、こういうことかと思う。
彼の写真をみていると、自分がその場にいるような感覚を覚える。
「私にはこう見える」
「ここから見るのが美しいんだ」
と作家にささやかれているかのようだ。
以前、東山魁夷氏の原画を見たときも、同じような感覚になった。
北欧の暗い森にかかるオーロラや、白馬と幻想的な森。
東山魁夷氏が
「美しいものをみた」
とつぶやくのを、隣で聞いているようだった。
実存する風景であれ、心の中の風景であれ、
「美」は、その作家に見える世界を映し出している。
作家の視点が抽出され、磨かれ、作品として具現化されている。
芸術は、見る者に、
作家がみた「美しいもの」を再体験させる。
時空を超えて、その作家が隣にいる感じがする。