わからない、だけど知っている

料理本と詩集と日記帳をかかえて、本の読める店fuzkueへ。
 
人間として生きるとはどういうことか。そんなことを考えながら、fuzkueの静かな空間の中で、息を吹き返す。
 
 

先日、谷川俊太郎さんの対談集を読んだ。宮藤官九郎さんとのやりとりのなかで、詩は、わかる/わからないが基準じゃない、とあった。
 

宮藤
そうすると、「この詩、面白くない」って言ったときに、自分に返ってきそうな気がするんですよね。何て言うんでしょう、面白くないってことは、感じられなかったってことじゃないですか。
 
谷川
そうです、そうです。感じられなかったのは、自分が悪いか、詩が悪いかってことでしょ? 詩が悪いんです。
 
宮藤
あ、詩が悪いでいいんですか?
 
「自由になる技術」より引用

 

谷川
 
だから詩っていうのは、本当はわかる/わからないが基準じゃないんです。おいしいかまずいかなんです。(略)
  
だって、芭蕉の有名な「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句だって、どういう意味って聞かれたら何て答えますか?「池に蛙が飛び込みました」って、それしかないでしょう? 意味としてはそれだけなんだけど、何か良いわけですよね。
 
「自由になる技術」より引用

 
 

 
 
話は戻り、昨日のfuzkue。
 
静かな環境で読みたいと、チリの詩人、パブロ・ネルーダの詩集を持ってきていた。
 
 
詩って本なんだな、と思う。
 
日常の切れ端ではなく、凝縮された思想が、本になるほどの分量、ある。
 

 
 
本を開きその1ページ、泣きそうになる。
 
詩人の抑えた感情が、当時のかたまりのまま、こちらにやってくる気がして。
 
 
チリの詩人が自然を歌う。
 
わからない。私はチリの動物も植物も歴史も知らない。なにがなにに例えられているのか、確かなことはわからない。
 
だけど知っている。
 
詩が伝えてくる、轟(とどろき)のような感情。嘆き、悲しみ、強さ……。
 
 
 
わかることと受け取ることはイコールではない。
 
わからなくても、わからないまま、受け取ることがある。
  
自分の過去を通して、異国のひとりの人間の心の一端を、受け取ることができる。