世に問う、自分に問う。問いの終わりと新たな問い

冲方丁さんの「ばいばい、アース」という小説がある。異界で、とある少女が「自分は何者なのか?」と世に問う物語。 
 
山口由起子さんのブログや最近読んだ本にも、たびたび「問い」の話が出てくる。
 
私もまた、問いを持っている。
 
 
 
私がかつて持っていた問いは、「自分の力を最大限使って働くにはどうしたらいいのか」というものだった。
 
もっと切実な言い方をするならば
 
「ストレスの少なさ」と「成果を出す」を、どうやって両立すればいいのか?
 
という問いだった。
 
 
自分の力を目一杯使って働きたい。成果を出したい。でも、ストレスを感じやすい。一体どうしたらいい……? と。
 
自分自身が試行錯誤したのち、その問いは、適職診断という形で仕事になっていった。
 
 
 
数ヶ月前、とあるお客様のご相談で「ラクに成果を出すって、どうしたらいいんですか?」という話になった。
 
私は「やりたいことを、強みを使ってやるんですよ」と答えた。
  
 
やりたいことを強みを使ってやっていると、楽(ラク)。その楽は、怠惰の楽ではなくて、「力を出せている」という意味での楽。
 
自転車をめいっぱい漕いでいるときやスポーツで思い切り体を動かしているとき、決して怠惰ではない。でも、やっている最中に力を出し切れていると、心も体も楽。
 
終わったあと、体は疲れても心は疲れない。「いい汗かいた!」となる。
 
その状態が、ラクに成果を出せる状態ですよ、と。
  
 
お客様にそんな話をして、「私の中ではもう既に答えが出ているんだな」と思った。
 
問いが、答えにたどり着いた。
 
理想論ではなく自分自身が実現したこと、そして、お客様たちが適職へと移っていく様子をみて、十分に答えが出た。
  
問いが終わったのだ。
 
 
 
そして今、次の問いが自分の中に芽生えている。私はこれから、この新しい問いに取り組みたいと思っている。
 
 
次なる問いは、
 
「心を主にして生きていくことはできるのか?」
 
ということ。
 
 
心――アートや哲学など心(感性)が生み出すもの――を中心に据えてこの世の中を生きていくことは、できるのだろうか。
 
この現実の世の中に、心はどこまで通用するのだろう?
 
 
心を中心に生きている人は世の中に大勢いるだろう。だからきっと、できることなのだろう。
 
でも私は「だろう」という形ではなく「できる」という答えを求めたい。
 
この体と精神を持った自分にできるのかと問いたい。

 
 
「世に問う」とは、「自分に問う」ということだ。
 
私は
「今の世の中に対して、心はどれだけ通用するのだろうか」
と思っている。
 
それはつまり、
「自分に対して、自分の心が、どれだけ通用するのだろうか」
ということだ。
 
 
「自分の心を、他ならぬこの私が、どれだけ信じていけるだろうか」――その問いを、いま、持っている。