あれもこれもできない。でもこれならできる
※新しい書き方をみつけたので、これまでと口調など変わりますが、書いてみようと思います。やった!
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思ったことをただそのまま書く、というこの形式に落ち着いて、びっくりするぐらいスイスイと書けている。これまでのコラム形式って大変だったんだな……と、今更ながら遠い目をする。
カウンセラーとして独立してから、コラムを300本余り書き、さらに本も書いたのだから、「書くのが苦手」というには無理がある。けれど私は、一つのコラムを書くのに3−4時間は当たり前、下手すると3日かかる。すんなりコラムを出せたことがなく、四苦八苦感が半端なかった。
苦心しつつも書けてしまうし、ありがたいことに、コラムを読んだお客様から文章が好きだと言われることもある。幼い頃から絵本や小説も書いていて、「自分は文章を書くのが好きなはずだ」という自覚もあった。
そしてなにより、「自分が細かいことにこだわりすぎず、ざっくり書いた文章で”よし”と思えるようになれば、もっとすんなり書けるはずだ」という思いがあった。
要するに「四苦八苦しているのは自分が未熟だから」と思っていたのだ。
今思えば、罠にかかりまくっていた。
客観的に見てどんなに「できて」いても、自分の中の苦手感はごまかせない。
そして、文章を書くのは好きなはずだという思い込みが、目を曇らせていた。
「文章」というくくりが、大雑把すぎた。
「こういう文章は得意」
「こういう文章は超絶苦手」
……と、もっとはっきり区別が必要なのだった。
新しい執筆の形を探りたくて、先日、山口由起子さんのもとへ相談に行った。そのとき
「ハウツーはもう書けない」
「エッセイかなって思うけど、美しい情景描写もできない」
「野球選手の○○は私にこう言った、みたいな華麗なる作家世界もない」
「啓発もできない」
と、あれができないこれができないを並べた。言いながら「おお、”できない”って言えるようになってる!」と思った。
「できない」と認めることは、難しい。「できること」で自分を保っていた昔なら、ここまではっきり「できない」と言うことはできなかった。
あれができない・これができないは、大事だ。
そしてさらに大事なのが、ここから。
私は色んな人の相談に乗ってきて、もはや「ここに光明がある」と思っているのだが――できることで一点突破するのである。
あれができない、これができないと散々並べたのち、それと同じ調子で続けた。
「でも、自分の気持ちをただ書いていくことならできる」
「そのなかに考察を織り交ぜることはできる」
私は、私にできることで、これまでの私を突破していこうと思う。