がんばってきた自分を、ひとりきりにしない
※記事が長かったので、分割しました!今回は「自分のがんばりを、自分で受け止めていく」ことについて書いてみたいと思います。
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【前回の記事】で、誰かの素晴らしさを「才能」で片付けてしまっていたな、と気づきました。
才能で片付けてしまうのは、相手が裏で重ねてきた がんばりを、うまく想像できない・とらえかねている、ということなのですが、
それはひるがえって、「自分のがんばりも、自分でつかみかねている」のかもしれないな、と思います。
自分の中にみえないものは、相手の中にもみえないだろうから。
自分のものであっても、相手のものであっても、「がんばり」そのものをつかみかねていて、がんばってもがんばってもカウントされない……、ということが起こっているのかもしれない。
カウンセリングをしていて思うのだけど、私も含め、みなさん、自分のがんばりってなかなか認められないものなのです。
ひとりの人間のなかには、いろんな自分がいる(=様々な考えがある)のだけど、
「『もっともっと』『これができたら次!』となって全然休めない」というご相談を伺っていると、
がんばってきた自分がいる一方で、
「それじゃ全然足りてない」とがんばりを無にしたり、
「がんばるからしんどくなるんでしょ」と批判する自分もいて、
がんばってきた自分が、他の自分たち(他の考えたち)から認めてもらえず、
自分自身から切り離されて、ひとりきりになっている、ということがしばしばあります。
そんなとき、がんばっている自分を、自分自身がしっかりみて(思い出して)ねぎらうことができると、ほっとするんですね。スピードをゆるめられます。
私も、自分のがんばりを認めていくことが、なかなか難しいけれど……
うん……、
以下は、みなさんがご自身のことに読み替えてほしいのですが、
私は、カウンセリングの仕事をしているけれど、
いかに心に向き合うか、深い領域で人と心を交わすかに関して、やはり何度も取り組んできたな、と思います。
それを「努力」というカテゴリーには入れてこなかったんだけど、
それでも、がんばったんじゃないか。
面白くて夢中だったけど、それらは決して「ラク」ではなかったから
たくさん働いてきたこと、それはやっぱり「がんばった」ってことなんじゃないか、と
これまでの道のりを振り返って、思いました。
「なんだかんだで、やっぱり、がんばってきたんじゃないか」
「うまくいかなかったあれもこれも、『がんばった』に入れていいんじゃないか」
そんな風に自分をねぎらっていると、まわりの人の姿を思い出しました。
「あの人も、すごくがんばっているんだな」
「当時は『もっとやってよ』と思ってたけど、すでに十分やってくれていたんだな」と。
相手のがんばりも、自分のがんばりも、どちらも大切にみていけるようになりたいです。
ねぎらいの気持ちに触れると、体があたたかくなるなぁ、と
ほわーんと嬉しくなりながら、そう思いました。