「自己開示」「自分を出す」とはどういうことか? 〜誠実な対話で地図が広がる

こんにちは、繊細の森の武田です。
 
今日は午前中に、クローズドイベント
「今の状況下で感じたこと、考えたことを話そう」
を開催しました。
 
(メルマガのみでお知らせしている少人数制のイベントです。)
 
 
メルマガにも書いたのですが、
今、ひとりひとりの考え方や、置かれた状況のちがいが
あまりに大きくて
 
「これを言ったら傷つく人がいるかも」と
なかなか言えないことがあるなぁと思ったんです。
 
 
在宅勤務になってほっとしてるとか、
実は◯◯です、とか……。
 
 
繊細さんは、感じる量も考える量も多いので
アウトプットすることが、生きる上で必須です。
 
 
自分の考えを
安全に話せる場所があったらいいなと思いまして
 
「ちょっと変かもしれないけど、こう思うんだよね」
「まわりとは違う考えかもしれないけど……」
 
みたいな話がたくさんでるといいな、という趣旨で
開催したイベントでした。
 
 

 
 
・在宅勤務になっての心境
・今の状況への考え
・志村けんさん 
など、いろんなお話が出まして
 
「こんな時は、みなさんどうしてるんですか?」
といったやりとりもあり、
あたたかい時間でした。
 
 
他の方の話は書けないので
「今の状況下で感じたこと、考えたこと」として
私からはどんな話をしたかといいますと。
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
このコロナの状況で、生命を守ろうという動きがあったわけですが
 
私自身は、なんだか「死」というものが
よくわからない、という感覚があります。
 
祖父母も子供の頃に亡くなりましたし
介護も看取りもしていないので
なんというか、死への感覚……死がどういうものなのかが
想像の範囲にしかなくて
実感としてうまくつかめない。
 
 
対比するように、子どもも身近にいなくて
会社で働いていても、独立してからも
子供との接点が滅多にないので

自分が子どもを育てるようになるまでは、
子どもという生き物がどういうものなのか、わからなくて
「子育てって大変らしいですね」ぐらいの感覚でした。
 
  
生命の誕生も、死も、生きる上で大切なもののはずなのに
どちらもとても遠い気がしていて、
 
生も死も、もっと身近にあるはずなのに、なんかおかしい、と
思ったんです。
 
   
……というお話をしました。
  
なかなかふだん話せない内容なんですが
話してみたところ
 
自分の住んでいる地域では……と、
死への考え方を教えてくださる方がいて
 
また、お仕事上、死が身近にある方もいて
穏やかに話を聞いてくださっていたんです。

  
意見交換するなかで 

「そうか。
生や死が身近にないというのは、
私の経歴によるところが大きいんだな」

と思いました。
 
端的に言えば
「ありゃ、私が偏ってたんだな」
と思ったんですが
 
自分の偏りがわかったことは、痛みではなく
とてもあたたかい感覚でした。
 
 

 
 
このオンラインイベントで
私はとても満たされまして
終わってからも一日ずっと、嬉しかったです。
 
穏やかに、自分とは違う意見を言ってもらえるって
とても嬉しいことなんだ、と思ったんです。
 
意見を言ってもらうことで、
自分が世界のどんな場所で生きてきたのかがわかります。
 
 
 
これまで「自分の島」に立って、うんうん考えていたのが
突然「地図」があらわれて
これまで見えなかった世界が、ぽっと見えてくるような感覚で
 
「ああ、いろんな人がいる。いろんな世界がある」
と、嬉しく思うんです。
 
 
 

 
 
人とつながりたいと思って、自分のことを話す……
ベタな表現だと
「自己開示する」
「自分を出す」
というのは
 
今日の出来事を話したり、
親しい人に本音を話すことだけではないのだと
思いました。
 
 
SNSで言えば
「今日のごはん」などの
日常生活をオープンにすることが
「自己開示」「自分を出す」なのではなくて
(それはそれで、全然ありですよ!)
 
「これって、言っても大丈夫かな」
「変かもしれない。自分だけかもしれない」
と思うような考えや疑問を
言ってみることが
 
深い意味での
「自分を出す」ということなのだと
思います。
 
 
 
自分を出せた時、
誠実に返ってくるものは
単なる「反応」ではないのです。
 
返してくれたその人の
人生経験や実感が込められていて
 
それはつまり、
その人もまた「自分を出してくれた」という
ことです。
 
 
 
対話とは
 
こちらも相手も
互いに「地に足の着いた自分」を出して
 
つまり、頭でぱっと考えたものではなく
自分の心から誠実に言葉を汲み上げて
行うものなんだと思います。
 
 
誠実な対話は、決して喧嘩ではなく
 
「あなたはそう思うのか。私は、こう思う」と
相手の意見を しかと受け止めて
自分のなかに蓄積し
 
相手の意見に触れることによって新たに生まれた
疑問や自分の考えを
相手に問う行為です。
 
単なるキャッチボールではなくて
蓄積と発展がある。
 
自分と相手の考えが違っていても良くて
むしろそのことを
喜ぶ気持ちがあります。
 
 
 
話すことで、自分の地図が広がり
また相手の地図も、広がっていく
 
それが、本来「人と話す」ということだったのではないかと
思いました。
 
 
(いただきましたご感想)

武田さま

今日のZOOMでのお話会ではお世話になり、ありがとうございました。
参加者の皆さんがお互いを尊重しあっていると感じれて、良かったです。

武田さんと、人の死に関わることのとらえ方を、意見交換して、
私と武田さんでは違うとらえ方をしているけれど、
お互いそれを尊重して傾聴している、と感じられたので、
人への信頼感が増し、自分の自分自身への信頼も少し増した気がします。
ありがとうございました。

繊細さんや、繊細さんに理解がある人と、
また話せる機会があるとよいと思いました。

武田さんの今後のご活躍を、陰ながら応援しています。
今日は、ありがとうございました。

 
 
今日ご参加のみなさま、心より、ありがとうございました!
 
 

 
 
互いの地図を広げていけるような
安心して思っていることを話せる場を
これからも作っていきたいと思います。
 
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