空白の時間。体にゆだね、とりとめなく思考が流れていく。

とりとめなく考えが流れていく「空白の時間」が必要なんだ、というお話をしたいと思います。
 
ここ最近、緊張が続いていました。小さくキュッと肩が上がって、なんだか落ち着かない気分。
 
繊細さんは日頃のインプットが多いぶん、アウトプットするといいんですが、どうもアウトプットの気分でもないんですね。友達と話したいわけでもないし、なんだか気持ちがそわそわしていて、落ち着いてノートに考えを書き出すこともできない。
 
いつも仕事に一区切りがつくと断捨離したくなるのですが、こんまりさんに習って洋服や本を「ときめくもの」だけ選ぼうとしても、なんだか直感が曇っていて選べなさそう……。
 
どれもこれもちがう、という気分になって、「あれっ、なんだか落ち着かない。なにがしたいんだろう?」と思っていました。
 
 
そんな日が20日ほど続いて(長いですね)、ふと洗濯物を畳んだときに、ほっとした感じがあったのです。
 
ふだんはYouTubeやドラマなど、なにか動画を見ながら洗濯物をたたむのですが、そのときはなにもつけずにいて。
 
胸のあたりに小さくほっとした感触がうまれたとき、「インプットはもう終わりだ」と悟りました。ここ数ヶ月あびるように本を読んでいたのですが、どうやら情報を入れすぎたぞ、と。
 
 
こりゃ、ただ手を動かすのがいいんだな。音楽や動画などのインプットはオフにして。
 
そう思って、クローゼットから以前買っておいたカゴ編みの材料をもってきました。
 
↓この本と道具を持っています

 
北欧の白樺風バスケットが作れる樹皮風のテープと、かご編み用の両面テープ。娘の洋服入れがプラスチックの箱だけれど、テープを編んでプラスチックの箱にはりつけて……バスケットみたいにリメイクしよう。
 
箱のサイズをはかり、テープをはさみでジョキジョキ切って、縦、横、縦、横とテープを編んでいきます。
 
隙間があいたから詰めよう、編むそばからゆるんでくるからテープで仮止めしよう、と「今ここ」のフィードバックを受けてひたすら作業していると、とりとめなく考えが浮かんでは消えていきました。
 
これをコラムに書こうとか、私がいま遭遇している事象はあの人もきっと経験したのだろうなとか……。
 
 
 
30分ほど作業したところで保育園のお迎えの時間になって切り上げたのですが、いつもの道を歩いていると、体の軸が真っ直ぐになっている気がしました。
 
呼吸がしやすく、秋の冷たい空気がすっと体に入ってきます。
 
 
光をやわらかく感じたり、爽やかな風を感じたり。私は体の状態を細かく感じて、いいか悪いかの判断に用いています。五感が「いいもの」に向き、感じられていたら、いい状態。
  
秋の空気や、いつもよりまっすぐな姿勢や、地面を踏みしめる感触。五感がよみがえったことで、手を動かした作用を感じました。
 
とりとめもなく考えが浮かんでは消えていくゆるやかな時間が、最近とれてなかったんだな、と。
 
 
「眠っているあいだに記憶が整理される」というけれど、うまく眠れないと整理されないし、仕事で人前に出るぶん考える内容も変化したから、記憶の整理が追いついていないのかもしれない。
 
子育て中で「今のうちにあれをやっておこう」と動き回ることで拍車がかかり、とりとめなく考える時間が――意識的に「考える」のではなくて、身体にゆだねて頭のなかを整理する時間が――いつのまにかなくなっていたのだな。
 
 
 
体の作用を信頼し、ゆだねる。このことを思うとき、私は村上春樹氏のエッセイを思い出します。
 
ほぼ毎日1時間ほど走っているという村上氏は、走る時間についてこのように書いています。
 

―― 一人きりになりたいという思いは、常に変わらず僕の中に存在した。だから一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとって重要な意味を持つ作業になった。
 
――走っているときにどんなことを考えるのかと、しばしば質問される。そういう質問をするのは、だいたいにおいて長い時間走った経験を持たない人々だ。(略)正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない。
 
――僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。
 
「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋)P31−32より引用

 
そう、おそらく人間には空白が必要なのです。
 
なにかを成すために休むのではなく、再び動くための空白ではなく、空白はただ空白として、必要なのだと思います。
 
 
栄養素が必要だから果物を食べるのではなくて、ただおいしい、すっぱい、と味わうために食べるように、ただ空白の時間を生きる。
 
働く自分もいる、たたずむ自分もいる。眠っている自分もいるし、意地悪な自分もいる。
 
空白の時間は、いくつもある自分のうちのひとつであり、同時に、いくつもの自分をつなぎあわせる役割のようだ……、と思います。